元気なうちに・・・と 思い立ったって「自分史」・・・私の路を書いて
みた ☆ B5 25㌻
写真を探すことに時間が掛かったことは言うまでもないが、幼少のころ
から成人になって経験してきた貴重な人生を文章にすることの難しさを
痛感した
幼いころの両親や祖母、祖父、兄弟との思い出が走馬灯のように浮か
んできた
高校生活は、故郷(庄原市)を離れて海田町の下宿先から電機高校
に通い、好きだった似顔絵を大した勉強もしないで描いたものだ
高校卒業後、就職したのは日立製作所系の西部日立製作所で、電柱に
登って電気工事の勉学?? にも励んだものだった
その後は、未知の世界「特許事務所」でみっちりと特許・実用新案
意匠・商標などを勉強しながら、実務として発明家の方が発明、考案
された技術などを特許庁に代理出願する「弁理士」の側近でひたすら
出願業務に専念した
結婚後、一姫二太郎に恵まれ、三人ともそれぞれの路を歩んでいる
このころから、実際に自分で考えたアイディアが商品化されることへ
の強い思いが植えつけられ、広島市西区の建築資材、機材のメーカ
ーに就職し、特許業務と同時に開発業務に専念した
全国の建築、土木現場で使用される建材、資材あるいは工法など
を世に送り出し、特許という独占権で高い利益率を上げ、日本一の
メーカーとしてのし上がって行くことができた
高い功績を評価され、報奨旅行として海外旅行にたびたび行った
思い出は脳裏に焼け付いている
阿戸町から片道67Kmもある安佐北の「技術開発研究所」に約20年間
通ったものだ
何と一年間に地球を一周したことになる・・・
そのころから阿戸町の里山あーと村で始まっていた「里山あーと村ジャズ
ライブ」に興味があり、身近な人がもっと楽しめる歌のコンサートを企画し、
初めての実行委員長として舞台に立ったのも貴重な思い出の一つだ
平成24年10月からチャレンジして初めての試験で取得した「介護福祉士」
両親には私を生んでくれたことへの感謝と、恩返しのために自分史の制作
に取り組んでこられたことが一つの宝になると思う
人との出会いを大切にし、自分の持っているものを出し惜しみをしないで、
生かしていくことに心掛けて行きたい・・・
路 道 未知・・・これからも続いていく路をしっかり踏みしめ、自分らしく
歩いて行こうと思っています
(デイサービスセンター くにくさ 出口 勝紀)